子どもたちへ、継ぐもの。
継ぎ続けて欲しいもの。

波田 千夏子さん
東京都在住・会社員

当たり前のように
数世代にわたる家族の歴史に囲まれて

 世の中が和装から洋装へと変わり始めた明治の頃に、新しいもの好きだったひいひいおじいさんが祖母に贈り、祖母から母へ、母から私へと受け継がれたネックレス。幼いころ、あれをもらうと大人になると思っていました。今は母の形見として『家継具 引と斥』に入れてはいますが、3年ごとに糸を付け替えながら、今でも使い続けています。
 私は田舎の写真館を営む家で生まれ育ちました。古く大きな家。ひいおじいさんが使っていた書斎、ひいおばあさんが使っていたお皿、絵の具の跡、もう使わなくなった古いカメラの道具など、いたるところに先祖を感じられるものがありました。
 その家とお別れしたのが18歳。田舎を離れ東京へ出た時のことです。さみしくはあったけど、一方で田舎の暮らしならではの煩わしいいろいろから解放された喜びもありました。正直なところ、ホッとしました。


子ども達が夢中になった、古い家族の写真。

あの子たちが大きくなった時、私はもう生きていないかもしれない。形に残るものを贈れば、私のことを覚えていてくれるかもしれない。

 そのまま東京で結婚し、子どももでき、生まれ育った古い田舎の家とは違う、自分の好きなものだけに囲まれた暮らしを手に入れました。しがらみやしきたりのない、先祖がいた空気を感じることもない、一代限りの家。それは、私が望んだものだし、子どもたちにとってもいいものだと思っていました。
 その思いに疑問を抱くようになったのは、50年近く続いている『いとこ会』で、古い写真を夢中に見ている子どもたちを見てからです。「おばあちゃんはこんな家に住んでいたんだ」「こんな写真館をやっていたんだね」「ここに写っているのは誰?」、まるで自分のルーツを探すかのような子どもたちの姿を見て、私が生まれ育った家の中で当たり前のように感じられていたことを、この子たちには感じさせてあげられていないんだなと思いました。
 そんな頃、ふと母の言葉を思い出したのです。初めてひ孫が生まれ、大喜びをしてすぐにおもちゃを買い与えた母をたしなめた時、返ってきた言葉。「あの子たちが大きくなった時、私はもう生きていないかもしれない。こうして形に残るおもちゃを贈っていれば、私のことを覚えていてもらえるかもしれない」。

何世代ものつながりの中にいる自分、そしてその先に続く家族のつながりを伝えていく

 この『家継具 引と斥』で私が形見として残したかったもの。古い家族写真や、受け継がれてきたネックレス。それは、子どもたちの母が、祖母が、曾祖母が、誰かに愛されながら育ち、生きたということです。その先に、子ども達がいるという「つながり」です。
 普段の暮らしのなかではなかなか伝えられないこと、感じられないこと。それを、偲びという当たり前の行為の中で、思い出させてくれるもの。それが、私にとっての『家継具 引と斥』であり、『家継具 引と斥』のなかに入れた形見たちです。 「引と斥と私」一覧へ戻る